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人生朝露

人生朝露

秋水篇の世界。

ところがどっこい。
荘子です。

季節は秋、ということで、秋水篇を。幸徳秋水の命名の由来となった秋水篇です。
外篇のなかでも、最も日本人に愛されたところでしょうね。

Zhuangzi
秋水時至、百川灌河、渓流之大兩、?渚崖之間不辯牛馬。於是焉河伯欣然自喜、以天下之美為盡在己。順流而東行、至於北海、東面而視、不見水端、於是焉河伯始旋其面目、望洋向若而歎、曰『野語有之曰「聞道百、以為莫己若者」、我之謂也。且夫我嘗聞少仲尼之聞而輕伯夷之義者、始吾弗信、今我睹子之難窮也、吾非至於子之門則殆矣、吾長見笑於大方之家」(『荘子』秋水 第十七)
→季節は秋となった。数多の川の水が黄河に流れ込み、中洲にいる牛馬の見分けさえできないほどの広がりだ。黄河の精霊・河伯(かはく)はうきうきとした気持ちがおさまらず、天下の美は全て我が黄河にこそある、と気もそぞろに流れに乗って東へ東へと進み、遂には北海へと連なる河口へと辿り着いた。そこからは、さらに東を見渡しても、中洲どころか、もはや水と空との見分けすらつかない。得意満面だった河伯は急にため息をついて北海の精霊・若(じゃく)に向って呟いた。「『世間の理屈をわずかにかじって、自分に敵う者はいないとつけあがる』という諺がありますが、今の私はその諺のとおりですね。私は孔子の博識や、伯夷の信念を貫く心を批判する人の気が知れませんでしたが、この大海原の果てしない営みを目にすると、そういう意味だったんだな、と思えます。私はあなたの門に辿り着かずにたのなら、きっと見識のある人たちの物笑いの種となっていたことでしょう。

Zhuangzi
北海若曰『井蛙不可以語於海者、拘於?也。夏蟲不可以語於冰者、篤於時也。曲士不可以語於道者、束於教也。今爾出於崖?、觀於大海、乃知爾醜、爾將可與語大理矣。天下之水、莫大於海、萬川歸之、不知何時止而不盈。尾閭泄之、不知何時已而不?。春秋不變、水旱不知。此其過江河之流、不可為量數。而吾未嘗以此自多者、自以比形於天地而受氣於陰陽、吾在天地之間、猶小石小木之在大山也、方存乎見少、又奚以自多。計四海之在天地之間也、不似?空之在大澤乎。計中國之在海?、不似?米之在大倉乎?號物之數謂之萬、人處一焉、人卒九州、穀食之所生、舟車之所通、人處一焉。此其比萬物也、不似豪末之在於馬體乎?五帝之所連、三王之所爭、仁人之所憂、任士之所勞、盡此矣。伯夷辭之以為名、仲尼語之以為博、此其自多也、不似爾向之自多於水乎?』(『荘子』秋水 第十七)
→北海の精霊・若はこう応えた「井戸の中の蛙に海の話しをしても分からないのは、狭い自分の世界に拘っているからだ。夏の虫に氷の話をしても分からないのは、自分の生きる季節のしか知ろうとしないからだ。曲学の徒に道理を説いても分からないのは、教えに束縛されるのを自分から望むからだ。河伯よ、お前はいま、川岸から流れ着いて、大海に臨み、お前とお前の世界のちっぽけさを知った。今ここで初めてお前と共に大いなる叡智について語り合うことができるな。天下の水のなかで海の水ほど大なるものはない。幾多の川の流れが海に注ぎ込むという営みが、永遠にとどまることなく繰り広げられているようだが、海の水があふれだしたためしはない。尾閭(びりょ)という大穴が海底にあって、そこから海の水が地中にもれだしているらしいが、そうであっても海の水が干上がったためしはない。春であろうと秋であろうとその水位は変わりなく、干上がったりあふれだしたりはしないのさ。海の大きさが黄河とは比べ物にならないというのを、数によって表現するのはどだい無理な話だ。しかし、私はお前のように自分だけが立派だとは思わない。自分の形は天地から授けられたもの。自分の気は陰陽から授けられたもの。天地の間に私がいるというのは、小さな木や小石が大きな山にぽつんとあるようなものだと考えるからさ。東西南北見渡して自らの卑小さを思い知っているのさ。どうして、自分だけが偉大だなんて考えるのだろうか?四海が天地の間にある様子を眺めていると、大草原に小さな蟻塚があるようなものだ。中国が海に囲まれている様子を眺めていると、大きな蔵に稗が一粒転がっているようなものだ。この世界に存在するものを人は万物と言っているが、人はその万物のうちのたった一つの存在にすぎない。人は九州を回って、穀物の実りの豊かな場所、船や車で行くことのできる範囲に散らばって住んでいるが、その人の一人一人は万物の内の一つのさらに小さな一つに過ぎない。人が一人天地の中にぽつんといる様子は、馬の産毛が馬の背に貼りついているくらいのものさ。五帝がその地位を譲り続け、三王が天下を奪い合い、仁の人が天下を憂い、任士が労苦を厭わず天下の仕事をやりのけたのも、天から見れば、ちっぽけな人の営みの一部に過ぎない。伯夷が富を求めずに清廉だと褒め称えられ、孔子が彼の功績を見出して博識だと名声を得たが、それもお前がさっきまで抱いていた自己満足と同じようなものではないか?

スケールがね、違うんですよ。
お釈迦様の知恵といっしょで、違うのです、ものさしが。

参照:The Power of Lord Buddha
http://www.youtube.com/watch?v=YifKR-rLxUo&feature=related

坂本竜馬。
竜馬が荘子を好きな理由もわかるでしょ?イデオロギーなんぞにかぶれるバカとは程度が違うんです。むしろ、アンチイデオロギーなんです。

参照:荘子、古今東西。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5038

Zhuangzi
河伯曰「然則吾大天地而小毫末可乎?」北海若曰「否。夫物、量無窮、時無止、分無常、終始無故。是故大知觀於遠近、故小而不寡、大而不多、知量無窮。證?今故、故遙而不悶、?而不跂、知時無止、察乎盈?、故得而不喜、失而不憂、知分之無常也。明乎坦塗、故生而不?、死而不禍、知終始之不可故也。計人之所知、不若其所不知。其生之時、不若未生之時。以其至小、求窮其至大之域、是故迷亂而不能自得也。由此觀之、又何以知毫末之足以定至細之倪。又何以知天地之足以窮至大之域。
→河伯は問うた「ならば、私が天地を大きなもの、繊毛を小さなものと分かればよろしいのですか?」北海若は応えた「いや、物の量というものは果てがなく、時はとどまることはなく、物の分は常に一定でなく、始まりと終わりは巡り巡って見極められない。道を究めた者からすれば、遠いものと近いものに偏りはない。大きなものだから立派だとか、小さなものだからつまらないなどとはしない。物量は無限であることを知っているからだ。そして、彼らは過去と現在を説きながらてそれがひとつのものだとする。時間が流れて止まるものではないことを知っているので、短命だからといって背伸びしたり、長寿だからといって(今までの恥を思い出して)悶えたりはしない。また、物はまるで月のように満ち欠けのがあることを知っているので、物をもらって喜んだり、物を奪われてくやしがったりはしない。物の分は常に一定でないと知っているからだ。また、世界が循環していることを知っているので、生まれたからといって喜ぶことも、死んだからといって悲しむこともない。そもそも、人間が知りうる範囲には限りがあって、人間が知っていると思っている範囲などは、知らない範囲とは比べものにならない。人間の一生というものも、その人間が生まれるまでの連綿と続いてきた時間とは比べものにならない。ところが人間はちっぽけな知の力と短く限られた時間の間に、至大の世界を知ろうとする。こんな調子だから心が迷って己を見失う。このように、お前が知りうる最も小なる「繊毛の先」がこの世で最小のものであり、お前が知りうる最も大なる「天地」がこの世で最大のものであるとは決め付けられないのだよ。」

空間と時間、マクロとミクロでものをとらえる。
いかにも荘子らしい。

参照:長岡半太郎と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5007

この秋水篇は、三国志の曹操(155~220)の、「歩出夏門行」の元ネタだと思われます。
生まれて初めて海をみて、大いなる志を詠う。荘子のイメージとよく重なります。しかし、詩人としての曹操は文句なしにかっこいい!

参照:歩出夏門行 - @nifty
http://homepage2.nifty.com/Booo/poem_caocao2.htm

「老驥伏櫪志在千里 烈士暮年壮心不已(ろうきふくれきこころざしせんりにあり れっしぼねんそうしんやまず)」『老いた名馬は厩につながれていても、その志は千里を走り、かつての烈士の猛き心は衰えることを知らない。』(私はこれが「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の元ネタだと思っているんです。)

横綱・大鵬が荘子の逍遥遊篇から四股名を引用したのも、スケールの大きな志を持とうということからでしょうね。

『燕雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや』

なにものにもとらわれない世界、一度はいってみましょうよ。

参照:『イメージの詩』 よしだ・たくろう
http://www.youtube.com/watch?v=WYCXDvYVZNU

今日はこの辺で。


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